上松町は、旧中山道の宿場町。
昔はいくつかの地名に分かれていましたが、「上松」という呼び名は縁起が良いため、婚礼行列のルートに選ばれたこともあったとか。
時代の流れや大火の影響で失われた宿場跡もありますが、現在も森林鉄道の遺構など、日本の文化を感じさせる場所が各所にあります。このページでは、上松町の名所旧跡をご案内します。おススメ! 「スマートフォンを横画面にしてご覧ください」


●中山道の散策に、ちょっと役立つ案内集

中山道お品書き① 上松宿
中山道お品書き② 寝覚の床
中山道お品書き③ 風越山、木曽駒ケ岳
中山道お品書き④ 小野の滝


● 上松宿、北から南へあれこれ

【至、木曽福島宿】
沓掛馬頭観音 およそ1170年前後に、この地域に木曽義仲という武将がいました。
義仲の馬は大変賢く、義仲の命令によく従いましたが、木曽の桟を飛び越す際、義仲が距離の目安を誤ったために谷へ落ち、馬は死んでしまいました。
かろうじて助かった義仲は、その後、愛馬を偲んでここに観音様を祀ったと伝えられています。
沓掛一里塚 一里塚は、昔の日本の単位「1里=約4km」に基づいて、距離を示した標識です。
この場所は「京都から66里(264km)、江戸から71里(284km)」と示されています。
木曽の棧


対岸の道路が旧中山道跡です。
木曽の桟は対岸の断崖に作られた木製の桟橋ですが、当時の木橋は残っていません。
ここは落石が多く、中山道でも上位3カ所に入るといわれる危険地帯でした。
現在では国道もバイパス化されています。
この場所には400年以上前に整備された石垣が残っています。

新茶屋 この付近には、中山道・木曽の桟を往来する旅人が憩う立場茶屋があったと伝えられます。
店の名物は蕨餅でした。
現在の国道は、木曽川右岸の山中にトンネルでバイパス化されています。
旭町 鬼渕鉄橋
日本全国で林業を支えてきた森林鉄道。
日本で最後の森林鉄道が運行されたのが、ここ上松町と王滝村を結んでいた木曽森林鉄道王滝線。
最終列車を見るために多くのファンが集まりました。
上松町には保存鉄道のほか、数々の資料や遺構が残っています。
上町 上松宿跡 上町は上松宿の面影をわずかに残す場所です。
上松町は1950年に大規模な火事に遭い、昔の町並みの大半を焼失しました。
奇跡的に死者はなく、この火災の跡地に現在の上松町が再建されています。
若宮八幡宮
上松町には数々の神社が残っており、駒ヶ岳神社を「古宮」と呼び、その他の神社を「若宮」と呼ぶ風習があります。
若宮八幡宮は近くの諏訪神社の例祭で祀られ、氏子による歌舞伎の上演や、神楽行事が行われます。
例祭は毎年9月上旬に開催されます。
玉林院 1579年以前に木曽義元の二男、玉林が創建したと言われています。
境内のクロマツは樹齢200年と伝えられており、上松町で度重なった大火で焼けることなく、奇跡的に残されています。
本町一里塚 一里塚は、昔の日本の単位「1里=約4km」に基づいて、距離を示した標識です。
この場所は「京都から65里(260km)、江戸から72里(288km)」と示されています。
上松駅前 JR上松駅は、かつて木材の集積地でした。
現在は、主に各駅停車の列車が停車します。
北は松本駅まで、南は中津川駅まで向かいます。
特急列車は朝夕に1列車ずつ停車し、北は長野駅まで、南は名古屋駅まで向かいます。
小川若宮神社
寺坂から西方向、木曽川の対岸に山が見えます。
その山の中腹に「小川若宮神社」があり、毎年4月下旬に祭を開催しています。
見所は、境内で上演される獅子狂言。
多くの演目の中で、安倍晴明の幼少期を描いた物語はとても人気があります。
寺坂 寺坂という地名ですが、現存する寺院はありません。
しかし坂の上には久保寺という地名もあり、平成8年には妙見山久保寺がかつて実在していたと判明しました。
起源は400年以上前。
火災によって失われたといわれています。
宮前 材木役所跡 上松町は木材の産地として栄えてきました。
1665年以降、木曽の森林では伐採を厳しく禁じられ、流通する木材も厳しく管理されていました。
現在の上松小学校の付近には、尾張藩直轄の材木役所が建てられていました。
諏訪神社 1599年より前に建立されたといわれていますが、創建年は定かでありません。
県下の諏訪神社で有名な御柱の風習が無いことなどから、京都方面から勧請されたといわれます。
例祭は9月上旬。国道19号線のバイパス工事では、神社の近くから縄文遺跡が発掘されています。
中沢 中沢は小さな川ですが、過去に偉大な役割を果たしました。
1950年に発生した火災では、上松町の多くの家々を焼失。幸いにして、この中沢が南への延焼を防いだのです。
現在は、農業用水などに役立てられています。
見帰(みかり) 見帰は「みかり」と読み、昔住んでいた翁が旅に出る毎にこの地に帰ってきたころから三帰(みかえり)翁と呼ばれ、地名の由来になったと伝えられます。
一本松は江戸時代~明治にかけて実在しましたが、明治初期に枯れてしまいました。
寝覚立場宿跡
中山道寝覚に残る古い建物は、「寝覚の床」へ至る参道の入口でした。
参勤交代の大名など、高名な旅人が逗留した際には高札を掲げて知らせ、礼を尽くしたと伝えられています。
その後は旅館や民宿として使用されてきましたが、現在は当時の資料を知る場所として残っています。
桂の木 木曽駒ヶ岳を流れ下る滑川は、急流のため水害が相次いだといわれています。
江戸時代、洪水の流れに乗って来たのが、この桂の木。
樹齢は400年前後と伝えられますが、確証はありません。
寝覚のシンボル樹となっています。
大宮神社
大宮神社は1636年に再建されていますが、創建年は不明です。
付近の切株の年輪から600年前と推察されています。
毎年7月中旬に例祭があり、歌舞伎や獅子神楽で賑わいます。
木曽駒ケ岳の眺望
上松町の各所で眺められる、中央アルプス「木曽駒ヶ岳」。
冬は花崗岩の山肌に雪が積もり、白い山脈に夕暮れの淡い光が映えます。
その姿は江戸時代の木曽八景にも数えられました。
標高2956m、日本百名山のひとつです。
滑川 中央アルプスから流れ下り、その名の通り、岩が滑り落ちるように木曽川まで運ばれます。
かつてヨーロッパの砂防技師をして「これは川ではない、滝だ」と言わしめました。
かつては街道を寸断する難所で、現在でも上流は砂防治山のメッカです。
小野の滝

小野の滝は中山道沿いにあり、旅人が涼しさと風景を楽しんだ名瀑です。
滝の落差は約15mで、上流には民家がほとんどありません。
江戸時代から有名で、英泉や北斎が浮世絵に描きました。
新選組の土方歳三も、この滝の姿を歌に詠んでいます。
隠れ滝
国道の対岸にある小山の陰に隠れた名瀑。
長い時間をかけて、滝の流れが山を侵食し、裏側に隠れたと考えられています。
近づくためにはケモノ道をかき分ける覚悟が必要です。
荻原宿場跡、一里塚 一里塚は、昔の日本の単位「1里=約4km」に基づいて、距離を示した標識です。
この場所は「京都から64里(256km)、江戸から73里(292km)」と示されています。
東野地区入口 東野地区は木曽古道と交差しており、木曽地方の中でも特に古くから人々が生活していたといわれます。
集落の中には「東野阿弥陀堂」がありますが、この小さな寺院は800年以上昔に建てられており、江戸時代には天井絵が描かれました。
立町宿場跡 中山道の多くは国道として整備され、埋没したところも少なくありません。
立町周辺も旧中山道を国道として使用していましたが、本格的な道路造成により、昔の道筋は上下に分断され残りました。
この場所では、宿場街道の痕跡がみられます。
倉本駅 1914年に立町信号所として開設されましたが、その14年後、駅に昇格して旅客が可能になりました。
無人駅で、これより南には単線区間があるため、時に列車が通過待ちする姿が見られます。
北は上松駅、南は須原駅です。
空木岳 標高2864mで中央アルプス第2位の峰になります。
木曽からは倉本駅と伊那川の2カ所からの登山ルートがあり、山脈の縦走ルートとしても利用されています。
倉本一里塚 一里塚は、昔の日本の単位「1里=約4km」に基づいて、距離を示した標識です。
この場所は「京都から63里(252km)、江戸から74里(296km)」と示されています。
上松・大桑境界 上松町の南端は、大桑村に接しています。
木曽十一宿に数えられた宿場のうち、大桑村には須原宿と野尻宿の2つがあります。
上松町の縦断では一里塚を4つ辿り、南端から北端までは約12kmあります。
【至 須原宿】