上松町の歴史

(参照:上松町史「歴史編」)

 木曽地域は、古くは「岐蘇、吉蘇」と呼ばれていました。キソという呼び名は飛鳥時代からと推定されていますが、7世紀には木曽川上流域を「キソ」と呼んでいたという記録が残っています。

木曽の名が広く知られたのは、木曽義仲の挙兵から。平家を追悼し征夷大将軍に任ぜられながらも、同じ源氏の一門に討ち取られました。

(昔の「木曽の桟」の図。木曽義仲が目算を誤り愛馬を転落せしめ、供養のため建立した馬頭観音が残る)

上松という地名ですが、期限は定かではありません。松が数多く生えていて、見上げれば松ばかり、というところから「アゲマツ」となった、という説もありますが、これも諸説のひとつです。日本人は松竹梅を縁起物とする風習があり、松を含む地名はめでたい、縁起がいいといわれます。

上松町には縄文時代から比較的大きなムラがあり、町内の吉野地区では遺跡が確認されています。また木曽川沿いの集落では、縄文~弥生時代の土器や石器も出土しています。国道バイパス工事に伴う遺跡発掘調査も行われ、木曽地域では唯一、弥生時代、古墳時代、奈良時代の遺跡が認められています。

中山道より遡る街道として「木曽古道」が整備されましたが、はっきりした起源は不明です。東国から防人を九州へ送った道ではないか、との説があり、旧中山道より標高の高い木曽駒ケ岳の山麓を、中央アルプス沿いに南北に通過。上松町には数Kmの痕跡と、東野阿弥陀堂が残っています。

(上松町西部から眺める中央アルプス木曽駒ケ岳。2020年に国定公園化)

14世紀以降、木曽地域は木曽氏が統治するようになります。15世紀には上松宿が整備され、木曽氏は一族を上松に住まわせて上松氏の祖としました。また荻原地区にも有力家臣である遠山主水を住まわせ、木曽義康・義昌の家臣として活躍しています。豊臣秀吉により、家康とともに関東へ移封された木曽義昌は現在の千葉県で死去。上松氏の上松蔵人は義昌の子・義利に殺害され、落人として上松に住んだ塚本家が宿役人として力をつけ、上松宿の本陣へと成長します。

江戸時代になると、木曽地域は山村代官が統治することとなりました。1601年、中山道が五大街道として整備が始まり、上松宿は中山道69次、木曽路11宿のひとつとなります。現在の上松小学校付近には1665年に尾張藩の材木役所が置かれ、木曽の森林管理の中心地となりました。

(江戸時代に描かれたといわれる、寝覚の床。現在と違い、浦島社が臨川寺対岸の山中にある)

尾張藩によって1665年に始まった森林保護制度は「木1本 首ひとつ」と恐れられた厳しいもので、地元の住民であっても自由に伐採することを禁じました。林業を召し上げられた木曽地域の住民は地場産業を推奨され、木製品の製造や宿場街道の経営など、近代につながる中山道木曽路の文化を形成していきます。

(そば処の老舗、越前屋の様子。名物「寿命そば」は現在も寝覚の床で食べられる)

(広重・英泉の浮世絵「木曽海道六拾九次」に描かれる小野の滝)

1868年に江戸幕府が滅び、明治維新が行われます。木曽地域は尾張藩から名古屋藩、名古屋県、筑摩県へと移行。1876年に長野県となりました。

上松村と荻原村が合併して駒ヶ根村となりますが、ふたたび分村。1881年に駒ヶ根村に合併し、1922年に上松町となり、2022年に町制施行100周年を迎えるに至りました。

(明治から大正時代と思われる中山道・寝覚地区。右側の木造施設は現存。奥に見える木は、桂の木として寝覚のランドマークに成長)

(林業の運材方法として、木曽式伐木運材法が江戸時代に確立。しかし水力発電所の建設で終焉を迎えた)

明治時代には木曽川で水力発電所の建設が進み、一気に近代化の波が押し寄せます。木曽川にダムができたことから、それまで川の流れを活用していた運材法が使えなくなりました。しかし名古屋から国鉄中央線が延伸し、木曽地域にも鉄道網が整備されていきます。上松町でも大正5年から森林鉄道の運行が始まり、林業に革新が起こります。やがて森林鉄道は地元住民の交通網として、長く親しまれることとなりました。

(明治末期~大正初期の写真を疑似的にパノラマ化したもの。国鉄中央線が左に整備され、貯木場が発生しつつある)

(木曽森林鉄道開通から花形として大活躍したボールドウィン社の蒸気機関車。煙突が丸く、戦前の写真)

 

(旧帝室林野が管理していた国有林へご視察に向かわれる平成天皇陛下:当時は皇太子殿下)

(皇室の視察が相次いだ、昭和40年頃の赤沢自然休養林。こちらへの小川線は間もなく廃線となり、トラックに切り替わる)

 

(上松駅前は、国鉄線へ材木を積み替える巨大な木材基地として成長)

木材を扱う地域には火災がつきまといますが、上松町も大火が相次ぎ、特に1950年には町中心部を焼き尽くす火災が発生しました。これだけの規模の火災にもかかわらず死者はゼロ。上松町はこの大火の教訓により、いちはやく災害対策を盛り込んだ町づくりに取り組むこととなりました。

 

(1950年の大火跡。木材工場も焼き尽くされ、当時は数少ないモルタル施設のほか、製材用バンドソーの筐体だけが焼け残った)

大火の後、上松町は現在の形となりました。日本の高度経済成長にも助けられ、林業と水力発電の産業が主力となり、最盛期には14,000人を超える人口に達します。しかし林業が鉄道からトラックに切り替わり、伐採量も徐々に低下。特に住宅建築が在来工法からユニット工法に切り替わると、木材需要が一気に低下し、林業は穏やかに衰退へと移行しました。

(1960年には、残存した3台のボールドウィン蒸気機関車のうち、2両がアメリカに里帰り。現在もカリフォルニアで展示されている)

(1975年に木曽森林鉄道が廃線に。さよなら森林鉄道イベントは、空前の賑わいとなった)

2000年代に入ると、国による市町村合併が促進されました。木曽地域では木曽を一体化する「木曽市構想」が早々に立ち消え、北部、南部が交渉を開始。住民投票などを経て、北部4町村が木曽町に合併。上松町は自立の道を進むこととなりました。

(国道19号線のバイパス化が進められ、平成末に桟バイパスの開通により整備が完了)

(平成最後の上松町の眺め。2021年には、手前の緑地に役場新庁舎が移転された)

 

【おもな出来事】

紀元前1万年頃: 吉野地区、諏訪神社周辺に、のちに遺跡となる住居あり

紀元前4千年~2500年頃: 上松町内の各所に、土器・石器をもちいた住居あり

西暦530年頃: 上松町の野中・吉野地区で遺跡となる住居あり

713年: 吉蘇路を通ずる。翌年、吉蘇路開通の功で美濃国司笠麻呂ら賞せられる

1180年: 木曽義仲挙兵

1183年: 木曽義仲、京へ上洛。平家追討の院宣を受ける

1184年: 木曽義仲、義経軍に敗れ栗原で討死

1264~74年頃: 東野阿弥陀堂が創建されたと伝わる

1338年: 足利尊氏、木曽家村の功を賞し木曽の地ほかを宛がう

1448年: 木曽家賢の弟・家信が上松氏の祖となる

1469年: 荻原鹿島神社棟札

1534年: 駒ケ岳神社棟札

1537年: 駒ケ岳神社 山頂に奥宮、麓の東里地区に里宮を建立

1555年: 木曽義康、武田信玄に降伏し娘真理姫と婚姻。信玄は木曽2郡を所領へ

1559年: 上松町の諏訪神社再建

1579年: 玉林院創建

1582年: 木曽義昌、武田家に叛き織田方につく。信長死後は徳川家康につく

1590年: 豊臣秀吉、徳川家康を関東に移封。木曽義昌は下総へ移され、木曽は秀吉の直轄領となる

1595年: 木曽義利、上松義豊を殺害。これが元で木曽氏断絶

1600年: 関ヶ原の戦い。東軍の勝利となり、家康は山村氏・千村氏に木曽平定を命ずる

1601年: 幕府、5街道を制定

1604年: 幕府、木曽に福島関所を設置(現在の木曽町福島)

1615年: 木曽、尾張藩となる

1644年: 最初の山林伐採に関する制限が出る

1664年: 尾張藩の木曽山巡検がはじまる

1665年: 尾張藩、木曽の林政を幕府直轄とする。上松に材木役所を設置、留山制度をはじめとする山林保護政策開始

1688年: 松尾芭蕉が木曽路を歩く

1689年: 伊勢神宮への遷宮用材を木曽から搬出

1708年: 尾張藩、伐採を禁ずる停止木(ちょうじぼく)にヒノキ、サワラ、アスナロ、コウヤマキを指定

1709年: 尾張藩、停止木にネズコを追加

1712年: 臨川寺弁財天堂建立

1716年: 中仙道を中山道に改める

1722年: 尾張藩、停止木にクリ、マツを追加

1726年: 尾張藩、経費削減のために材木役所を廃し、上の段役所に併合

1738年: 尾張藩、カツラ、ケヤキを留木に指定

1740年: 尾張藩役所が上松に移り、上松材木役所となる

1775年: 駒ケ岳神社の「太々神楽」が現在の形となる

1809年: 伊能忠敬、中山道を測量

1811年: 東野阿弥陀堂を改修

1835年: 広重・英泉「木曽海道六拾九次」

1845年: 木曽式伐木運材絵図 上下2巻が完成

1849年: ケヤキが停止木となり、停止木をヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキ、ケヤキの6種とする

1850年: 原畑用水が完成

1861年: 皇女和宮、江戸へ降嫁のため木曽路を通る

1871年: 廃藩置県 上松材木役所を廃止

1889年: 上松村、小川村、荻原村が合併し、駒ヶ根村となる

1894年: 帝国議会で国鉄中央線の木曽通過を決定

1901年: 御料林守護取締規定を制定 赤沢から伊勢神宮遷宮御用材を搬出

1904年: 木曽の御料林内に神宮備林を指定

1906年: 赤沢が神宮備林に指定される

1910年: 国鉄中央線須原~福島間が開通、木材の鉄道搬出が始まる 名古屋電灯KK、木曽川の水利権を掌握

1913年: 森林鉄道小川線(上松~赤沢)の敷設開始 森林鉄道王滝線の起点を巡って福島と上松で騒動

1917年: 森林鉄道王滝線の起点を上松に決定

1919年: 木曽森林鉄道王滝線着工

1921年: 帝室林野管理局上松運輸出張所を開設 伊勢神宮御神木を上松駅から搬出

1922年: 駒ヶ根村、町制を施行し上松町となる

1923年: 寝覚の床が国の文化財名勝に指定される

1934年: 上松町観光協会設立

1943年: 帝室林野局木曽支局が木曽地方帝室林野局に改名

1944年: 伊豆八丈島の人々が上松町に疎開

1945年: 太平洋戦争終戦

1947年: 御料林を国有林へ全面移管 長野営林局を福島に設置 上松町役場庁舎が駅前通りに移転

1950年: 上松大火で615戸焼失、災害救助法発動 復興へ

1951年: 中央アルプスが県立公園に指定 上松町役場再建 5月14日を大火記念日とする 上松営林署、上松駅舎など落成

1953年: 十王沢で氾濫、町消防団員が殉職 特別災害救助法適用

1955年: 上松町に木曽官材市売市場が完成

1957年: 皇太子殿下(のちの平成上皇陛下)、小川国有林を視察

1959年: 桟の鉄橋が完成

1960年: ボールドウィン蒸気機関車残存3両のうち、2両がアメリカに里帰り

1962年: 木曽森林鉄道の撤去を決定、1975年3月に全面廃止 赤沢が学術参考林に指定

1965年: 木曽森林鉄道小川線を廃止 伊勢神宮第60回式年遷宮御杣始祭 木曽観光連盟設立

1966年: 木曽の桟が県史跡に指定

1967年: 赤沢森林公園の造成開始

1968年: 西筑摩郡を木曽郡に改称

1969年: 第1回ひのきの里まつり開催

1970年: 赤沢自然休養林が国民休養広場としてオープン

1975年: 木曽森林鉄道王滝線廃線、国内最後の森林鉄道が運行を終える

1978年: 駒ケ岳神社「太々神楽」が国の民族無形文化財に指定 赤沢自然休養林に森林鉄道記念館が完成

1979年: 寝覚の床を美しくする会が発足 御嶽山が有史以来の噴火

1982年: 林野庁が森林浴を提唱、赤沢自然休養林で第1回の全国大会が開催される

1984年: 和歌山県那智勝浦町と友好都市提携

1985年: 伊勢神宮第61回式年遷宮御杣始祭、赤沢の保存鉄道で運材し、話題を呼ぶ

1987年: 赤沢自然休養林で夏休み自然体験イベント「トムソーヤクラブ村」始まる 赤沢森林鉄道の保存運行開始

1989年: 上松町正島に上松営林署・木材販売所の合同庁舎が完成

1992年: 町制70周年記念 町の花がオオヤマレンゲとササユリに決まる。木はヒノキ、鳥はコマドリ

1995年: 阪神淡路大震災発生、被災地へ災害ボランティアを派遣

1998年: 国道19号線上松バイパス完成

2002年: 豊明市と友好自治体提携調印 大道久司君、県大会と北信越大会を優勝し全国大会へ

2003年: 木曽で町村合併論議が本格化

2004年: 上松町、住民投票で合併反対多数となり自立の道を選ぶ 木曽古道整備で吉野地区が環境省表彰受賞

2005年: 伊勢神宮第62回式年遷宮行事、赤沢自然休養林の周辺で挙行 森林セラピー基地認定調査を開始

2006年: 赤沢自然休養林、第1期森林セラピー基地に認定

2010年: 日本の小惑星探査機「はやぶさ」が帰還、探査の火工技術開発に携わった佐藤氏が地元で講演

2011年: 東日本大震災発生、東北地方へ災害ボランティア派遣

2014年: 御嶽山が水蒸気爆発、国内最悪の火山災害となる

2015年: 大道久司君、出羽海部屋に入門し「御嶽海」として角界デビュー

2016年: 木曽路が日本遺産に認定

2018年: 御嶽海、7月の名古屋場所で初優勝

2019年: 御嶽海、9月場所で2度目の優勝

2021年: 上松町役場、新庁舎に移転し運営開始

2022年: 御嶽海、初場所で3度目の優勝を決め大関へ昇進

 

最終更新:2022年3月11日

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