赤沢自然休養林は、日本三大美林の一つ。
樹齢300年以上の天然木曽ヒノキが林立していますが、 原生林ではありません。
1600年代の半ばに、 当時の尾張藩が厳しい森林保護政策をもって護り始めたのが、 この森の始まりです。
ここでは、赤沢森林鉄道ご案内します。


2024年シーズンの運行は、4月27日(土)~11月7日(木)を予定しております。

悪天候や点検補修のため、まれに運休することがございます。

最新情報をご参照ください。

 

 

赤沢森林鉄道は、開園期間中の春から秋まで、園内で運行されています。もとは博物館の施設なので、運行距離は長くありません。

しかし澄んだ水と空気、雄大な美林を縫って走る姿はまさに「森林鉄道」。国内外から多くの皆様に親しまれています。

【Googleマップ 赤沢森林鉄道】


【赤沢森林鉄道】 往復2.2km 1便当たり5両・定員100名

料金: 大人(中学生以上)900円

4歳~小学生 600円 団体15名様以上 各100円引

障がい者割引 ご本人半額、介助者1名まで100円引

夏休みイベント「トムソーヤクラブ村 木曽・上松」期間中は+200円 (この期間中は切符ではなく、イベント参加券(木製パス)の販売です)

15名様以上の団体はご予約も可能です。0264-52-1133(上松町観光協会)までご相談ください。

 


【ご乗車にあたって】

● 2024年シーズンも、水曜日に運休日を設けておりますのでご注意ください。

● 運行パターンがタイプA、タイプB、タイプCの3パターンあります。土日祝だけでなく時期によっても異なりますのでご注意ください。

梅雨シーズンなど、休日でも1時間に1便の運行日がございます。

● 開園期間中、軌道整備日が設けられています。
5月・7月・9月に各3日間、運行できない日がありますので、予めご了承ください。
運行カレンダーにも掲載されています。

● 7月下旬から約1か月、トムソーヤクラブ村木曽・上松イベントが開催されます。
渓流広場や木工教室など各イベントのほか、森林鉄道も臨時便を増設します。
この期間中は乗車料金が変更されておりますので、ご注意ください。

● ペットのご乗車はご遠慮いただいておりますのでご了承ください。

 

● 赤沢森林鉄道のご案内

かつて木曽地域で林業が盛んだった時代、運材に住民の足にと親しまれた鉄道がありました。

全国で活躍した森林鉄道のうち、国内最後まで現役で運行された、木曽森林鉄道です。軌道の幅は762mm。JRの線路より狭い軌道は「狭軌、ナローゲージ」と呼ばれ、当時の山間地の輸送手段として最適でした。

やがて木材の輸送手段は鉄道からトラックへ。木曽森林鉄道も、1975年に最後の運行を終えました。

それ以後、赤沢自然休養林の森林鉄道記念館で静かな余生を過ごしていたのです。

転機は赤沢園内で開催された、1985年の伊勢神宮御用材伐採。久しぶりに運材に活躍した森林鉄道が全国に放送され、一気に評判になりました。

それから2年後、まず夏休みから、樹齢300年の天然ヒノキ林を走る赤沢森林鉄道が運行を始めました。

 

 

● 木曽森林鉄道の歴史

 1900年初頭、日本各地で鉄道網が整備されていきました。木曽郡内でも国鉄中央線が名古屋から塩尻までを結び、近代化の波が訪れていました。そんな時代の中、これまで河川を利用していた運材は、水力発電所の建設により行えなくなり、木曽の木材もまた鉄道を利用して輸送されるようになりました。

1916年、本格的な機関車と軌道を用いた森林鉄道「小川線」が開通します。上松と赤沢を結んだ小川線は木曽森林鉄道活躍の幕開けでした。やがて木曽森林鉄道の軌道は、この地域だけで500kmを超える規模に成長します。
運材用の機関車として、世界各社の蒸気機関車が検討されました。その中から好評を勝ち得たのが、アメリカ・ボールドウィン社製のB1リアタンク型蒸気機関車。以降、この車両は10台が輸入され、木曽森林鉄道の花形になっていきます。

当初、森林鉄道は木材を運搬するだけのものでした。しかし山奥にまで行き届いた鉄道網は、山間地域の交通手段としても望ましい姿でした。
運材貨車以外に作業員の乗る車両が連結されていましたが、やがて空いた席に住民が乗れるようになり、物流も担うようになります。地域住民には証明書が発行され、無料で乗車することができましたが、あくまでも荷物扱い。また料金を取らない代わりに国家賠償法に基づく事故の補償もありませんでした。そんな事情はさておき、森林鉄道は木曽になくてはならない存在として、親しまれてゆくのです。

 時代は激動の中へ。第2次世界大戦に突入すると、国内は資源が枯渇していきます。蒸気機関車の燃料となる石炭も不足し、関係者は代用品として、山々から伐採される木材の枝や端材に着目しました。ところが石炭と異なり、あっという間に燃えてしまううえ、煙突から火の粉が散り、行く先々で火事になってしまう恐れがありました。数年間にわたる試行錯誤ののち、火の粉を散らさない巨大な煙突と、より燃料を積み込める枠を積み上げ、木曽森林鉄道独特のスタイルが蒸気機関車に備わりました。
現在も赤沢に保存されているボールドウィン号は、こうして育ってきたのです。

しかし戦争は人々の暮らしを疲弊させ、資材不足は森林鉄道にも及びました。車歴を重ね老朽化した蒸気機関車は解体され、鉄材として供出されました。10両あったボールドウィン号は、大戦後には3台に減っていました。

戦後、日本は徐々に成長期を迎えます。交通機関も蒸気機関車から内燃機関に切り替わり、木曽森林鉄道にもディーゼル機関車が導入されていきました。最後まで残っていた3台のボールドウィン号も、1960年、引退の時を迎えました。3兄弟のうち2台が名古屋港からアメリカに里帰りし、現在はカリフォルニア州の交通博物館に保存されています。
最後に残された車両は、小川線開設当時に導入された、木曽谷1号機。アメリカ製を示す銘板は大戦中に外されていましたが、やがて末弟の10号機の銘板を譲り受けることとなります。

  1975年、日本国内は高度経済成長を果たし、運輸環境も一変していました。鉄道は電化され、また内燃機関の発達で、運材には軌道を必要としないトラックが重宝されていきます。
そして木曽森林鉄道も、廃線が決まりました。

このとき、全国の森林鉄道は次々と姿を消しており、木曽の王滝~上松間の「王滝線」が国内最後の路線ということで話題を呼びました。テレビでも特別番組が報道され、最終運行が近づくにつれ、両駅にテント村ができるような賑わいに。乗車は行列となり、作業員や住民が乗った後、空席を抽選で分け合うほどでした。

そして迎えた最終便、それまで倉庫に保管されていたボールドウィン号も最後の花道を飾ります。既にボイラーは傷み、編成をけん引するだけの力はありませんでしたが、内燃機関車の支援を受けながら勇ましく煙を焚き、往年の現役時代を彷彿とさせる雄姿でした。
「さようなら林鉄、こんにちはトラック」と描かれたアーチをくぐり、木曽森林鉄道は幕を閉じることとなります。

…でも、地域に親しまれた森林鉄道は、その灯を消すことはありませんでした。

 廃線となった森林鉄道ですが、保存を望む声が高まり、林野庁が森林鉄道記念館の建設を決定。自然休養林として新しい国有林の活用を拓いた赤沢の園内に、運行当時の車両や資料が集められ、保存を目的にした軌道も敷設されました。

この施設が大きな注目を集めたのが、1985年に挙行された、第61回式年遷宮行事です。

20年に一度、遷宮として社殿が建て替えられる伊勢神宮。その習わしには一級の天然ヒノキ材が求められ、木曽地域は伊勢神宮と密接なつながりがありました。61回目の遷宮行事では、赤沢の園内から御用材が産出されることになりました。
この様子は、テレビや新聞を通じて全国に配信されます。そこには、御用材を運ぶ森林鉄道の姿が。
「まだ残っていたのか」「走れる軌道があるのか」 赤沢の森林鉄道が錦を飾ることになりました。

上松町では、この話題性を活かすべく、2年間かけて準備を進め、1987年の夏休み、ついに観光用の施設として赤沢森林鉄道の運行が始まりました。
赤沢の利用者は2倍に増え、新緑から紅葉まで、あちこちからお客様が訪れて楽しまれていきます。
赤沢森林鉄道の運行と同時に始まった自然体験イベント「トムソーヤクラブ村 木曽・上松」も引き続き開催され、最初は子供だったお客様が、家族を連れて遊びに来てくださることも多くなっています。

近頃は、海外からも見学や体験が増えてきた赤沢森林鉄道。往復2.2kmの短い公園施設ですが、その歴史と愛着は木曽地域全体に広がっています。

森林鉄道記念館は、「昇龍道ものづくり街道」に選定され、こちらから紹介されています

 

まさに大きな玩具箱! 日本の森林鉄道文化を存分にご堪能下さい。

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